2015年12月3日木曜日

Nationality

先日、ふとしたことからアメリカ文学の教鞭をとられている方と文化についての話をしていた時、改めて気づかされたことがありました。

私は文化は宗教的なものを抜かし、大半が言語から構成されているものだという考えです。その地域で日常使用されていた言葉というものは、継がれていかなければ、その地域での思想を継ぐことが難しいのではないか?そんな考えを持っており、その方も同様の意見の持ち主でした。

例えば日本の公用語が英語になったとしたら、日本語が作り出してきた文化がどのくらいの速さでなくなる可能性があるのか? 2人で出た答えは大凡100年です。それは何故か?

例えばアメリカなど他の国で住まれている多くの日系人、当たり前ですが元を辿ると日本人、ですよね(笑) その国の言葉を使いつつも、家やその周りでは日本語を使用し、また日本の文化を持ち込みつつ異国で生活してこられたのだと思います。ただ、そのお子さんたちは日常英語を使用する文化圏での生活比率が大きくなっていくわけです。そうすると日本語が必要となるのは、親族と話をするときのみ、日本人ならではの日常習慣も親からの発信のみでしかない状況下。アメリカ人として、アメリカの生活習慣が当たり前の中で成長していくわけです。
そしてその子らから生まれた子供たち(つまり3代目)は、親との会話は英語、日常習慣はほぼアメリカ人と変わりません。そうしてナショナリティは失われていくのです。

もちろん文化の違うところで生活をしていく中で必然的なことと思います。だからその文化(言語)を大旨受け入れるということは、そういう可能性を秘めているのではないか?

文化とは想像以上に儚く脆いもの、今は勝手にそう捉えています。












Vicke

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